こんにちは看護師の岩原です!
私の思い描く未来、そしてこれまでの人生について赤裸々に書かせていただきました。
興味のある方はぜひ流し読みでも結構ですので読んでみてください!
私の人生の夢
私の最大の夢は『日本の健康寿命と寿命の解離を少なくすること』です。
皆さん健康でなくなり、好きなように生きられなくなってから亡くなるまでの時間がかなり長い方がいることをご存知でしょうか。
好きなことができなくなってから数十年にわたり楽しみもなく生きなければならない世界が存在すると言われたらゾッとしませんか?
現在の日本では医学的知識が十分でないとルールに縛られた施設に入りただ生きる日々を過ごし、命に関わることが起きると延命を家族が望み命が伸びる。
その結果、寝たきりで自分の考えることを訴える手段もなく
思ったように寝返りも打てずただ栄養、排泄、呼吸の管理をしてもらい
何十年も経過する道に歩んでしまうことがあります。
延命をどこまで望むか。それは人生の最後の迎え方を左右する大きな要因です。
でもそれを決定する際、医師の考えに偏りがあったり、医療者の説明が家族へ十分に
行き届いてないと思わぬ未来の選択になってしまいます。
私はただ命を助けるのではなく助けた先に、
その人らしい人生が待っているのかまで考えることが大切だと考えます。
ですが、『日本の健康寿命と寿命の解離を少なくする』
と言ってもすぐには難しい現実があるのは明白です。
そのため、私はせめて出会った人が『人生の最後を楽しく過ごせる施設を作ること』を中間目標として掲げています。
幼少期〜高校生:看護師を目指し専門学校を受験
私は三重県の田舎で四人兄弟の末っ子として育ちました。家族の期待に応えるのが大好きで褒められるように生きてきました。姉が医療関係者、自分が世話好きなことから小学生の時に母から「看護師が向いているのではないか」と助言をもらいました。
私は安定も考慮し母の言う通り看護師を目指すこととします。
中学生ではそれなりに勉強しそれなりの成績をキープしていました。
しかし、中学3年生の時に転校してきたやんちゃな男の子となんやかんやあり付き合うこととなります。しかし、そのことを起点として成績はガタ落ち。
担任の先生が自宅訪問にくるまで大騒動になりました。高校受験までには大人の力もありその彼とはお別れし、なんとか第一希望の高校へ推薦で合格しました。
高校時代は勉強しないもののグレる事もなく普通の高校生活を過ごします。
好奇心が強く、成長意識だけは高かったことから
大学受験が近づくにつれ「三重県で学べることは少ないんじゃないか」と 思うようになります。
また当時、三重に住んでいた祖母に体調変化がありました。その祖母が「東京に帰りたい」と言い出し、自分が祖母の住む場所の提供ができたら…と考えたことからも「上京」を高校3年生で決心。
決心して1年経たない間に受験のため大焦りで勉強し、なんとか合格しました。常にギリギリセーフの人生です。
東京に上京〜看護専門学生時代〜
看護師の専門学生はとんでもなく大変で慣れない土地に慣れない人、初めての一人暮らしそれだけでもいっぱいいっぱいでしたが
朝から夜までみっちり授業があり、2年生からは実習三昧でした。
親の思いもあって進んだ道、期待を背負っておりやめるとは言えない。医療への興味はもちろんあるため頑張り続けました。
厳しいルールに厳しい指導講師、厳しい看護師に日中は質問攻めにあい自己肯定感はガタ下がり、元々真面目ではあった私はなんとか完璧な状態で提出物を提出しようと朝まで課題をし数時間睡眠の毎日を送ります。
正直、頭がおかしくなりそうでした。
しかしそんな多忙の中私はある疑問に出会います。
『日本の医療は本当に正しいのか』
日本人の人生の最後には寝たきりの生活が
何十年も待ち構えている?
日本は高齢化社会ため、80から100歳がたくさん病院に運ばれてきます。70代は若いと呼ばれる世界です。
そんな世界では高齢者にたくさんの延命治療がされています。でも延命治療から得られる未来はざらに皆さんが期待する未来ではないことがあります。
例えば、苦しんで伸びる命は数週間だけ…であったり、延命の先に待ち受けているのは何十年も寝たきりの生活であったりします。
もちろんケースバイケースですので後遺症は残っても人生の再スタートをされる方もいらっしゃいます。
しかし皆さんの望まない未来が多くの税金を使用し、提供されてしまう。
そんなことが多すぎるように思います。
この世界を日々目の当たりにし、「自分が行っていることは本当に合っているのか?」
純粋であった看護学生の私は現状が正しいのか疑うようになってしまいました。
そこで私は成績は下がってもいい、アルバイトをしてお金を貯めて
「日本よりも先に少子高齢化に直面したナイチンゲールの街に行こう!」
ナイチンゲールが生きた街があるイギリスはホスピスの発祥地でもあります。
金銭的事情から休学はできない、長期休みで留学しようと思うと、専門学校であったため
1ヶ月しか行くことはできません。しかし、それでも私はイギリスに足を運びました。
その頃の私は、日本の正しいとされている治療を誰もが受けることが当たり前で
人の命は助けるものだと信じていました。
しかし、海外特有の最後まで個人のアイデンティティーを尊重する文化に感銘を受けます。
イギリスは最先端医療も進んでおり高度医療が提供される中、死への準備を選ぶこともしっかりされていました。
イギリスの施設を見学した際にはネイリストにネイルをしてもらう癌の末期の方や
施設の庭を自分仕様にしてもらいそれを眺めて紅茶を飲む婦人。糖尿病を抱えながらもアフタヌーンティーを楽しむ男性。
治療という枠にとらわれず、笑顔で生きる姿が見られました。
その経験から日本人はもっと人生の最後を謳歌して旅立つべきなんだ。
と考えるようになります。
地獄の看護師への道のり
帰国後成績が下位から数えた方が早くなっていた私は、指導者の先生に呼び出され勉強するよう特別クラス(成績が悪い人たちを集めた補修のようなもの)に入れられます。
流石に焦りを感じた私は一日10時間程度毎日勉強し、3年の夏の模試では学年1位を取るまでに成績を伸ばします。怖いと思っていた指導者の先生には「努力は報われると証明した子」という言葉をもらい成績は上々です。
しかしこの頃には私の体は悲鳴をあげていました。
精神的にも体力的にもかなり負荷をかけてしまっていたことから学校に向かう途中に
意識消失します。気が付いたら電車の吊革を持って立っていたはずが
椅子に座り電車に揺られており、なんとか学校に着くも血圧60台。
ギリギリ意識を保っていられる状態になることもありました。
東京の街ゆく人の波の中なぜか「私はこの世界でひとりぼっちなのではないか」という思いに襲われ、涙が止まらなくなることも増え、どこからともなく『来世があったら…』
『いつか死んだら』『楽になりたい』という思いが沸くようになります。
祖母の死
国家試験が終わり就職までの春休み東京に行きたいと言っていた祖母の状態が悪化します。
東京から三重県に戻り、訪問看護師と共に祖母の身の回りのお世話をさせていただき、
母の代わりに祖母のベッドの横で寝ました。
祖母は女経営者。気が強く自分の思ったことは絶対の方でした。
夜中でも数十分おきに言いたいことがあれば「あーーー!」と叫び私を起こします。
その度に私は飲水介助や体位変換を行いました。状態は横ばい。
私は私の誕生日に遊ぶ約束をしていたので自分の家に帰ることにしました。
しかし、私の誕生日に祖母は空に旅立ちました。
介護はたった1ヶ月満たない程度でした。
祖母は身なりをとても気にする方だったので動けなくなっても
清潔を保ち可愛いパジャマを着せて、好きなものだけ食べてもらいました。
そのために旅立ちは早かったのかもしれません。しかし、最後まで意思疎通ができ
祖母らしく私に「私のことは忘れるな」と言わんばかりの日(私の誕生日)に
空に旅立ったこと、微笑ましく、安堵の思いもありました。
水が欲しい時も『み』しか言わない祖母が
私の顔を見て「綺麗な顔や」とはっきり話したことは今でも思い出します。
小学生の時から夢に抱いた看護師の現実
祖母のこともありゆっくり春休みも取れず、
正直、入職時は心も体も予備機能がほぼない状態でした。でも、夢にまでみた看護師の世界にやっと自分も入れる。緊張もある中楽しみもありました。
しかし、新人看護師の世界は地獄のような日々でした。
まずは質問攻めの毎日が始まります。
質問攻めは看護学生の頃から毎日のように受けていましたが何度やられても心が騒つくものです。
「根拠は?」「だから?」「何が言いたいの?」と言われ言い返せないため『すみません。勉強しなおします』と謝り続けます。
新人歓迎会の日の夜勤は当たりくじと言われており誰も自分を歓迎していない状況に
肩身が狭くお昼休み時間もいない存在だと扱われ、
年の近い先輩にはベテランの方達が話す内容は
「聞こえないふりをしていなさい」と教えられます。
トイレでご飯を食べた方がマシだとさえ思いました。
人権のない扱いのため『すみません』と『ありがとうございます』『お願いします』『お先に失礼します』以外の言葉はほとんど発せない日々。
一番の味方は患者様でした。しかし、その患者様はどんどん亡くなっていきます。
プリセプターからの指導も全く頭に入らず、ついに私の心は壊れてしまいます。
自殺未遂
看護師を通して患者様のためになることを提供したいという思いよりも先輩看護師に怒られたくないという気持ちで働く日々に疲れ、母が東京旅行しに来た時に私は決心します。
「お世話になった母にお金を使ってあげて、私は死のう。」
母が実家に帰宅した後、私はアルコールを多量に摂取、抗精神病薬を多量内服し
新宿の自殺スポットから飛び降りようとしました。
しかし抗精神病薬が思ったより回り、昏睡してしまいます。視界がぼやけ、体が思うように動かなくなる中で一番仲良くしてくれていた友達にだけ連絡をしました。
その友達は昏睡した私を発見してくれ救急車を呼んでくれました。薬物の血中濃度を薄めるため点滴をしてもらい目を覚まします。
そこからはベッド上から動けない生活、トイレすら看護師さんと一緒です。
数ヶ月療養しましたが、夢を諦められず再び東京で働くことを決意します。
しかし、一番仲良くしてくれていた友達も精神疾患となってしまいます。
うつ病状態は寛解してきていましたが、結局トラウマもあり私の踏ん張りは効かず
結局、地元に帰ることを選択します。
田舎の医療の現実
頑張りきれなかった私ですが東京の最先端医療をかじっていたため、田舎の滞ったままの知識で指示を出す医師にショックを受けます。
昔の知識のまま治療を進め正しい治療の提供ができていない、そのため命の延長だけが行われ、正しい知識の提供をした上での患者様、またはそのご家族様のご意向が治療に反映されません。
当然、そばにいる看護師の私としては「これでよかったのだろうか」という思いになりました。しかし、高齢の医師に何を言っても「お前は黙っとれ」の一点ばり。田舎ではまだまだ「お医者様の世界」なのです。
東京でも日本の医療は間違っているんじゃないかと感じましたが、田舎の病院で働きさらに「全力を尽くした上で亡くなった」というエゴを強く感じました。
そんな悲しい現実を踏まえて、
私は「家族も本人も幸せな旅立ち方を死が見えてきた時点で話し合い、その人にとってベストな環境づくりを考え、もし利用者さま自身が意思を訴えられなくてもその人の意思を受け継ぐものとして施設側がしっかりとその思いを尊重し最後まで見届ける」そんな施設を作りたいと思います。
そこでその施設を成功させより多くの人に価値提供ができるようにするためには
自分の施設のマーケティングをする必要があると思い現在マーケティングを学んでいます。
しかし、このブログは過去の自分のように
「仕事で現在、未来に絶望しているけども逃げ方がわからない人」に逃げ方を知ってもらいたい。そして今の私のように
「再び夢を持って人生を歩んでほしい」という思いを詰め込んでいます。
ブログを通じて、どうか皆さんが
現在も未来も夢や希望、目標を持って楽しく人生を全うできますように。